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「堕落論」と東日本大震災の半年(坂口孝則)
私の敬愛する作家の坂口安吾(以下、敬称略)の代表作といえば「堕落論」だろう。この本を読んだことがない、あるいは、誤読した人によって「坂口は、人間の堕落を勧めた」といわれている。デカダンス(享楽主義)の文脈から、戦後日本人に刹那的な生き方を勧めたというのだ。
ところで、坂口はほんとうにそんなことをいったのだろうか。著作権が切れていることもあるので、「堕落論」から引用してみよう。かなり印象と異なることをいっている。
冒頭から、こんな調子だ。
「半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ」
半年で日本は変わった。かつて特攻隊として死んだ若者たちも、いまでは闇ビジネスに手を染めている。夫を戦場で失った妻たちも、いまでは事務的な対応だけで、あらたな恋をはじめるだろう。ただし、それは人間が変わったわけではなくて、もともとそんなもんで、世相が変わっただけだーーと。
はたしてこれは、人間の堕落と享楽を勧めた文章だろうか。いや、むしろ、人間の本質をえぐったのではないだろうか。坂口はこのように続ける。
「この戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことを禁じられていた。戦争未亡人を挑発堕落させてはいけないという軍人政治家の魂胆で彼女達に使徒の余生を送らせようと欲していたのであろう。軍人達の悪徳に対する理解力は敏感であって、彼等は女心の変り易さを知らなかったわけではなく、知りすぎていたので、こういう禁止項目を案出に及んだまでであった」
小説家たちは戦時中に未亡人の恋愛を書くことはできなかった。これは、むしろ、指導層が女性たちの心変わりの早さを知っていたからであったーー、と。
さて現在。東日本大震災のあと、共同体の重要性が訴えられている。これまでは、「個」の時代だった。しかし、震災や緊急時には、人間ひとりでは対応できないこともある。やはり共同体の暖かさのなかで人間は生きていくべきだ、と。これまで日本人は利益主義、個人主義を発展させすぎた。かつての日本人の心のありように回帰せねばならないのではないかーー。
しかし、私は「ほんとうだろうか」と思う。日本人は、戦後の経済成長によって変わってしまったのだろうか。坂口安吾の論から思うに、そもそも人間とはそんなもんだったのではなかっただろうか。共同体で生きるなんて、しがらみばかりでつらいことばかりだ。それなら個人で好きなように生きていったほうが良い。もしかすると、震災前の「無縁社会」から、震災後の「共同体主義」に変化していったのは、単に人間のエゴイズムを表現しただけのことではなかっただろうか。
そもそも、人間とは多かれ少なかれ、利己的な動物である。自分にとって共同体が便利であれば、それを活用するだろう。もし、自分にとって一人で生きることが有利であれば、共同体など捨てるだろう。
「堕落論」とは、「堕落しなさい」といいたいわけではなく、「堕落せざるをえない、つい利己的に生きてしまう人間の本質」をあわれさと哀しみを交え描いたものではなかっただろうか。
東日本大震災のあと、それでも身勝手に生きろ、と主張することは難しい。時代の空気、雰囲気が、なかなかそれを許さない。私など、東日本大震災後においても「一人で生きていく」と信念を持ち続けている人は、むしろ尊敬に値する。
世相にあわせてカメレオンのように自分を変えていく、哀しき人間。
しかし、とはいえ、私が指摘した「共同体主義回帰への危険性」ももはや意味がなくなっているのかもしれない。3月11日の東日本大震災のあとには、あれほど「生き方を見直すきっかけになりました」といっていた人たちも、半年たったいまでは、その変化を見出すことすら難しい。あれほど騒いでいたサプライチェーンの脆弱性についても、もういまでは真剣に考えている人が少ない。
あれだけのショックにもかかわらず、もはやたった半年も人の心をとらえることはできないのだろうか。そうであれば、坂口の指摘「それは人間が変わったわけではなくて、もともとそんなもんで、世相が変わっただけだ」の正しさがわかってくる。
私たちは、やはり坂口の指摘通り、世相にあわせて、その都度、その都度、だましだまし生きていくしかないのだろうか。それであれば、もう震災のことなど忘れて、一日一日だけを考えて楽しく生きていくほうが良い。そんな結論すら導くことができる。
かつて、援助交際を行う女子高生たちに、「大人」の論者は「もっと将来のことを考えなさい」といった。フリーターやニートにたいして、同じく「大人」の論者は「将来のことを考えて、いまから仕事や勉強をはじめなさい」といった。しかし、実は、その大人たちだって、現在と将来のつながりなど考えずに、場当たり的に生きてきただけではなかったか。ときに堕落し、ときにその堕落を反省し、一貫性のないまま、なんとなく生きてきただけではなかっただろうか。
「堕落論」は、いまだに私の心に深く刺さりつづけている。