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もはや震災後ではない
かつて経済白書は「もはや『戦後』ではない」と語った。昭和31年度の経済白書でのことだ。後年の人びとは、私も含めて、そのフレーズの意味は、「戦前レベルのGDPに戻った」とか「もう戦争を惹起せねばならない時代は終結した」とかの意味でのみ理解している。
しかし、あらためて経済白書を眺めてみると、その文脈上の意味がだいぶ乖離しているとわかる。著作権の問題があろうかと思うが、白書の性質上、そのまま引用する。引用元は駒沢大学のwebページからである。
いわく、
戦後日本経済の回復の速やかさには誠に万人の意表外にでるものがあつた。それは日本国民の勤勉な努力によつて培われ、世界情勢の好都合な発展によつて育まれた。
しかし敗戦によつて落ち込んだ谷が深かったという事実そのものが、その谷からはい上るスピードを速からしめたという事情も忘れることはできない。経済の浮揚力には事欠かなかった。経済政策としては、ただ浮き揚る過程で国際収支の悪化やインフレの壁に突き当るのを避けることに努めれば良かった。消費者は常にもつと多く物を買おうと心掛け、企業者は常にもっと多く投資しようと待ち構えていた。いまや経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされた。なるほど、貧乏な日本のこと故、世界の他の国々にくらべれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期にくらべれば、その欲望の熾烈さば明らかに減少した。もはや「戦後」ではない。われわれはいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終った。
とのことである。このように前後の文章を読んでみるに「違った」一面が表出してくる。それは、一般に解釈されている意味ではなく、敗戦後の需要に支えられて景気が浮揚し、これ以降はそれだけをあてにすることはできない、とする「真」の意図である。
私は、ここで「後」を共通とした「もはや震災後ではない」というフレーズを提示しておこう。それは、明らかにパイプの絵であるにもかかわらず、その下に「これはパイプではない」と書いてみたマグリットにもヒントを得ている。現在は、あきらかに「震災後」であろうし、その影響がおさまらないとはくり返し書いてきたとおりだ。しかし、経済白書のように、あきらかに「戦後」である時期に、違った意味において「戦後」ではない、とする程度の巧妙さは模倣してもよいだろう。
現在、何もかもが「震災影響」とするフレーズの下で動いている。すべて3.11以降のものは少なからず影響を受けざるをえない。また、企業戦略や、大袈裟に言えば、人生戦略も影響を受けるだろう。
しかし、震災後であって震災後ではない。これはどういうことだろうか。ここで、話を調達・購買に移したい。
それは一義的には、「もう平静を取り戻している」の意味かもしれない。サプライチェーンの復興や、生産の復旧にメドがついたと、少なからぬ企業から聞こえてくる。しかし、もう一つの意味があるように思われる。
震災後の何もかもがめちゃくちゃで、混乱が生じていた際には、調達・購買部門の声が通りやすかった。これまでであれば考えられない代替部品や代替海外サプライヤーの採用を促進することができた。火事場泥棒という悪しき言葉に乗じれば、危機時にこそ他部門を籠絡するチャンスがあった。アンケートをとると、実際に危機こそが調達・購買部門の活躍の好機ととらえる旨も多かった。
震災後はサプライヤーとのリレーションを含んで、ソーシング戦略を見なおしている企業も多い。ただ、調達・購買部門内で戦略を書き換えたとしても、それを実行に移す際には、すでに平時に戻った社内関係部門と対峙せねばならない。緊急時であれば説得しやすかったところ、もはや緊急時を脱したと認識する社内関係部門に、大胆な調達構造改革を申し入れるのは骨が折れる作業だろう。
まさに一義的な意味で書いたとおり、社内が平静を取り戻すにしたがって、無理な要求は通らなくなった。皮肉な意味でいえば、震災直後であれば、それ転機としてサプライチェーンを見直すこともできた。しかし、人間とは戻りやすく、既存のシステムに安住してしまう。
それを冒頭のフレーズに込めた。「もはや震災後ではない」。