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調達・購買・資材に関わるみなさまへ②
技術者であれば、自分の範囲は限られる。ただし、調達・購買・資材部門であれば、調達先の領域も、そして国々も、大きさも多様だ。しかも、その責任範囲は、かなり広い。
あるとき、新技術をもつ調達先があったとしよう。あるいは、業績的に呻吟している調達先があったとしよう。または、コスト競争力をもつ調達先があったとしよう。調達・購買・資材部員であれば、ただただ、「そこに行く」ことが許されている。私であれば、いまはできない。
「今日、また自分の無力さを知ってきたよ」
いまは、私はそのような言葉を発することができない。無意味に、どこかに行くようなことがあってはならない。
ただし、調達・購買・資材部員であれば、何気ない行動すらも許される。調達先のさまざまな取り組みに、1円でもコストを下げようとする試みに、少しでも品質をあげようとする真摯さに、その優劣とは別に、人為と努力の重なりに、世界を見つめる眼差しが変化を起こすに違いない。人びとが今をより良くしようとしている事実そのものが、ある種の愉悦すらも与えるだろう。
そうして、自分が知っていることが、世界の欠片でしかなく、自分の無力さと、同時に可能性すらも感じることができるだろう。
現在、調達・購買・資材部員の目の前に広がっている景色は、そのような希望にあふれたものではない。むしろ、悲惨で無残な、どうしようもない現実かもしれない。
しかし、私たちは、その現実を直視することからしか始めることはできない。自分の仕事がどんな意味をもつかを自ら問い、その絶望を噛み締めるしかない。広がる世界の多様さと、不条理を理解することで、より大きな自由を獲得するよう、少しずつ前進するしかない。目の前の業務に対応しつつ、大きな世界を見つめる。今はどんな困難な時代であっても、それを直視するしかない。
落涙によって哀しみに打ちひしがれたとしても、それを粛々と受け止めるしか、私たちには残されていないのである。
仕事に、失望するべからず。仕事に愛情を持ち、真摯でさえあれば、なんとかなると楽観論を忘れるな。また、過去への惜別とともに、未来に向かって歩み出せ。
一つだけ、私の思い出を話す。
かつて、神戸大震災のとき、私の恩師は「できるだけ被災者支援をせよ」といった。「そうすれば、自分がいかに無力かを思い知る」と。私は神戸に行こうと試みた。しかし、交通事情と、おのれの意気地なさが手伝って、それは果たせなかった。
救援物資を送ろうと試みたが、それも騅逝かず頓挫した。恩師は「それみたことか」といった。「お前など、何も役に立たないだろう」と。恩師は私を批判したかったわけではない。「ただ、この無念さを知れ、そして覚えておけ」といった。
いまは何もできないかもしれない。企業の生産ラインが崩れてしまったときに、もしかすると一人の調達・購買・資材部員が何もできないかもしれない。すべてが他社、人任せになっているかもしれない。
ただ、それでもなお、「ただ、この無念さを知れ、そして覚えておけ」と。
それは自責の念を抱かせるだけかもしれない。しかし、私はこの無念さを噛み締めておくことこそが大切なのではないかと思った。
現在、日本が経験したことがないほどの惨事が広がっている。震災から時間が経過したが、まだ本格的な復旧には遠い。公共インフラだけではなく、多くの企業でも同じような状況が続いている。
私の恩師は「ただ、この無念さを知れ、そして覚えておけ」といった。私たちはこの震災を前に何ができるだろうか。そして、かつての自分と比して、社会に何の貢献ができるようになっただろうか。それを問おうと思う。
企業も、単独の行動だけではない。ライバル会社の生産ライン復興を試みるところや、会社の懸隔に関係なく、さまざまな救助に名乗り出ているところもある。ここまで書いて、私はふたたび、調達・購買・資材部門の季節について考える。「おのれの無力さを知る」ということを。そして、自分が生きるとはなにか、共生とはなにか、自分が成し遂げるべき目的とはなにか。そのことが頭から離れない。
テレビでは、震災に遭い、すべての建家や財産を失った企業経営者がインタビューに答え、言葉に詰まり号泣していた。私たちは、この人たちに何ができるだろう。それとも、私たちは「おのれの無力さを知る」段階にとどまるのだろうか。
その答えは、一人ひとりのなかにしかない。