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購買批評序曲(1)
「こんなのメーカーに頼めばいいじゃねぇかよ!」
ある製品のコスト報告のときだった。
予定の原価よりも大幅な赤字状態。
これではどうしようもない、と概要説明だけではなく各購買担当からの説明を求められたことがあった。
「赤字っていったってそんな設計をしているほうが悪いじゃねぇかよ」とバイヤーたちはグチを言い合っていた。
バイヤーたちは「購買力だけではどうしようもない、仕様が悪いのだ」、と言わんばかりの態度だった。
その中でも、特にナーバスになっているバイヤーがいた。
当然だ。
その製品の赤字の50%は、そのバイヤーの担当製品だったからだ。
もちろん、できることはやった。他の製品の購入歴と比しても高いとはいえない。むしろ安いくらいだ。
しかし、頑張っても1,000円は予定原価に対して高い。
バイヤーは「予定原価が誤っているだけだ」、とまで言うつもりはなかったが、どうしようもない感は持っていた。
そのバイヤーは正直に現状のコストを報告した。
報告の後、コストの報告を聞いていたマネージャーは一言叫んだ。
「1,000円だろ!こんなの『下げろ』ってメーカーに頼めばいいじゃねぇかよ!」
・・・・
そのバイヤーは私だった。
私は購買部というものの本質について考えてきた。
それを一言でいうと「会社の立場をフルに利用し、取引先からゴネ得を享受する組織・集団の一形態」ということだ。
皮肉が過ぎたかもしれない。
しかし、この定義を使えばほとんどのことが理解できた、私には。
毎期毎期のコストダウン依頼が論理的でないのも、それはゴネ得期待のためだ。あるいは机を叩く交渉も。まず声を出すことを覚えさせられる新人教育も。
これらを上記の定義に当てはめてみれば理由はすぐに分かる。
取引先には大きい存在が、社内では要求すらも通らない現状を考えてみてもいい。
もちろん、私は机を叩く交渉などはできない。せいぜい恫喝くらいだ。
冗談である。
そもそも購買領域の教科書的な言説がなぜ現場のバイヤーにとっては杓子定規な無用物に感じられてきたかといえば、本質はこの定義の差異にある。
理想的な購買像を定義する教科書が、目の前のゴネ得を追わねばならない(追う期待をされている)バイヤーにとってどれだけ無意味であったかを考えてみればいい。
教科書と現実は常に同床異夢の関係であり続けていたのである。