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あのバカは荒野をめざす(坂口孝則)
藤子・F・不二雄さんの作品に『あのバカは荒野をめざす』という異色の短編がある。先日、機会があり、この短編を読み返してみた。すると、20年近く前には感じなかった何かが別の形で私の胸を衝いた。
この作品をご存じない方は、「箱舟はいっぱい」などで読むことができる(また、大声ではいえないが、YouTubeやニコニコ動画でも見ることができる)。
藤子・F・不二雄さんの短編には、「あったかもしれない過去や将来」について、考えたことのない人にはバカげたこととしか思えないものの、考えたことのある人には胸に迫る強烈なリアルがあふれている。
大晦日、主人公のホームレスは、ある26歳の男性を説得するために27年前にタイムスリップする。主人公が説得を試みようとした男性は、27年前の自分だった。ホームレスの主人公は、大企業の社長の御曹司として生まれた。輝かしい未来が約束されていたものの、27年前の大晦日にバーの女給の頼子と駆け落ちすることを決意していた。この決意こそが、のちに主人公の人生を転落させ、ホームレスに追いやったのだった。
ひとの愛情はすぐに色あせ、情熱は冷めていく。主人公は、かつての自分に言葉を投げかける。
「温室をとび出し、寒風吹きすさぶ荒野を目指しつつあるわけだ。いっとくが、その荒野のきびしさは予想以上のものだったぜ。暗く寒く……渇いて飢えて……そしてなによりも…………果てしがなかった」。
しかし、かつての自分はその助言に耳を傾けることはなかった。
「頼子にはぼくしかいないんだよ。苦労しているけど純な良い子だ。あの子を幸せにしなきゃ、ぼくが、この世に生まれてきた意味がない」。
そして、かつての自分は「ぼくは、ゆるせないぞ、自分がそんなにみにくく老いていることを!! 過去の自分をせめる以外なすこともなく…………」と怒り出す。
結局、主人公は説得に頓挫し、現在に舞い戻る。しかし主人公に落胆はなかった。
「結局…………道をあやまるのも若者の特権ということかね。だれにも止めることはできない」と語り、ただただ情熱的だった自分の姿を誇らしく思い出す。ラストの、主人公が笑顔でふたたび人生に挑戦することを決めるシーンは感動的ですらある。
「なにかをやってみたくなった。ひと花咲かせられないものでもあるまいよ。なあにおれだってまだまだ…………」。主人公はそういって夜の街に歩いていく。
失敗するとわかっているかつての自分から励まされる逆説。この物語は藤子・F・不二雄さんの短編のなかでも人気が高く、一般的には情熱を失った主人公がかつての自分を見て、明日への希望を紡ぎだすものとして理解されている。
しかし、この短編をはじめて読んだ小学生の私には違った衝撃をもたらした。
私は、ことあるごとに、<いまの気持ちではなく、いまの目の前の仕事に集中せよ>と書いてきた。その意味では、かつての主人公は若気の至りゆえに失敗したといえるだろう。いまの気持ちを優先することによる誤謬。しかし、私はこれをふたたび述べるつもりはない。私にとって興味深かったのは、主人公がかつて頼子を愛していた自分を見て、頼子への愛情を復活させたのではなく、仕事への意志を復活させたことだった(インターネットでいくつもの感想を読んだものの、幼いころの私と同じこの感想をもつひとはいなかった)。
愛と仕事を逆転させてみれば、この奇妙さがわかるだろう。たとえば、主人公はサラリーマンでありながら、マンガ家になる夢を捨てきれず、その情熱ゆえにマンガ家になって、その後ホームレスに転落したとしよう。その主人公が過去に戻り、マンガ家になりたい情熱にあふれた自分を見て感化され、これから新しい愛を見つけようと決意するだろうか。愛から仕事への転化はあっても、仕事から愛への転化は難しい。少なくとも私には想像ができない。
この短編では頼子がどうなったかは書かれていない。しかし、主人公が頼子を探して愛を再確認するストーリーであれば、幼い私に衝撃はなかったのだろう。ただ、主人公はその瞬間に頼子を必死で愛したかつての自分を見て、今からでも何かの仕事をはじめられるというメッセージを受け取った。現在の認められず貧しい自分の境遇を変えられると知った。
二人の主人公は、過去でも将来でもなく、今に集中することによって、そして今を生きる決意をすることによって、「意味」を得た。ただし、かつての自分は対象を愛として。現在の自分は対象を仕事として。
この結論は瞬間の突発的な愛を否定するものではない。むしろかつての主人公は、そのときの仕事に集中することによって、頼子と付き合っているほうが、むしろ仕事の成果が出ることを周囲に理解させるべきだっただろう。漠然とした夢を描くのではなく、肉親や社会から認められるためにいまに集中すべきだっただろう。私たちは社会とつながろうと思えば、仕事を通じてしかありえない。そして、お金になる認められる仕事を重ねることで、家族やパートナーとの関係もより良いものになるだろう。考えてみれば、パートナーが、社会とのつながりを意味する仕事で認められているのと、認められていないのとでは、どちらが良いかは自明だろう。
私はそっと、あの主人公のことを思い出している。人生は長い。「ひと花咲か」すことだけにとらわれることなく、仕事への意志がたまゆらではなく、たんたんと仕事をこなし、いつか仕事が愉しいと誤解してくれることを願って。