・教育の本質

バイヤーをいかに育てればいいのか。このことについてお悩みの人も多いと思う。人材教育は「人財」教育でもある。会社は「人・カネ・モノ」とよくいう。ただ、カネやモノはどうにかなっても、結局「人」については有効な策を講じることのできない会社は多い。

人々が管理職になったときに、少なからず戸惑うのが人材育成ということであり、いかに知識やスキルを部下に与えていくか、あるいはモチベーションを持たせていくか、という課題はどの時代にもずっと存在してきた。

ここで教育というものを定義してみたい。

それは「虚像を与えること」であろう、と私は思う。教育で伝える内容は大人たち、あるいは先輩たちが経験した「良かったこと」「成果をあげたこと」ではない。大半のそれが「こうなりたかった」「こうあるべきだった」という理想論に基づくものである。

考えてみればいい。学校教育で教師たちが発した内容のほとんどが、「人はこうあるべきだ」という願望に基づいたものであり、その発言者の人格や経験とは乖離していた。いや、そういうものなのだろうと思う。教師の経験から体得した内容のみしか教えることができなければ、ほとんどの教師は教えることを持ち合わせていないだろうからだ。

教師は最初から教師である。民間企業に勤めた経験のある人は、いまだ少数だ。だから教科書通りの内容しか「吐けない」のは、おそらくしかたがない。

私は、教育の本質を<「虚像を与えること」>だと述べた。そして教師たちがそのようにしかふるまうことができないことを、「しかたがない」といった。しかし、それには当然ながら弊害がつきまとう。

子どもたちはバカではないから、教師個人とその発する内容の埋めがたい差を感じている、と私は思う。子どもは、大人たちが与えようとする「虚像」について、欺瞞を感じざるを得ない。「先生たちは偉そうに言うけれど、そんなこと自分たちだって実践できていないじゃないか」と。それは倫理道徳のような教育のときに、もっとも顕著になる。

戦後民主主義教育と、全共闘世代の教師たちが教えた内容は、「自由・平等・博愛」だった。しかし、残念ながら、その内容を詰め込まれたはずの子どもたちは、それに反抗するかのように育ち始めた。これは当然だろう、と私は思う。「自由・平等・博愛」を叫ぶ教師たちが、子供から見れば、組織にがんじがらめにされている「不自由人」だったからだ。

・バイヤー教育のあるべき姿

教育とは虚像を与えることであるが、その虚像が教育者と乖離しているとき、子どもたちは反感を抱き、教育内容とは逆方向に進んでいく。考えるに「時代はまわる」とは当たり前なのだと思う。大人たちが虚像を教える。子どもたちはその逆に育つ。すると、その子どもたちが大人になってさらに虚像を与えようとする。それを聞いたその下の子どもたちは、さらにその逆に育っていく。

ということはどうしようもないのだろうか。

一つの解決策はある、と思う。それは「虚像」を与えないことだ。いや、少なくとも虚像を与えるときには、それを自覚することだ。そして、自分の経験からのみ紡ぎ出した言葉で語ることだ。

かつて学校教育とは寺子屋のような形をとっていた。そこでは教師はおのれの言葉で語り、自分の経験上立ち向かった問題の処方箋を与え、それをみんなで討議した。工業化社会の到来とともに、学校ではカリキュラムが整備され、「ドリル」「反復練習」というものが開発された。これらは、知的レベルをあげるためだと喧伝されていたが、実際の狙いは子どもたちを工場労働者に仕立て上げるためのものだった。「ドリル」「反復練習」とは、工場作業者の思想を植えつけるものだ。

これまでの教育とは三つのものを柱としていた。

1.何かを繰り返すこと(「ドリル」「反復練習」などはまさにこれだ)
2.訓練に耐えること
3.答えを見つけること

これができれば、立派な労働者が誕生、というわけだ。しかし、教える側は「ほんとうは、こんなもんじゃ社会で役に立つ人間にはなれない」と実は知っている。ほんとうの社会は、ややこしく、複雑で、人間関係も入り組んでいて、矛盾に満ちている。ただ、「実際の社会では、答えなんてないことが大半だ」とはいえないから、教師たちはカリキュラムにそって教えている。

これを打破するしかないのだろう、と私は思う。たとえば私の「調達力・購買力の基礎を身につける本」では、すべて教科書的な内容を排し、「自分がやって成果のあがったもの」と「自分の経験から感じたこと」のみを書いてみた。お決まりの解決策など何も役に立たない。それであれば「自分はこうやってきたし、こう考えてきた。それを伝えよう。あとはどうするかは決めてほしい」。これがせいぜいのことではないか。

教育とは虚像を与えることが本質である。ならば、その本質を塗り替えることからしか始まらない。「こうすべきだ」「こうあるべきだ」というメッセージを排すこと。そして、自分の経験と、それに基づく思想を中心に伝えること。それが、カリキュラムと提携内容にまみれた「教育」に亀裂を生じさせる。

1.「開発購買」にせよ「コスト抑制」にせよ、理論だけを語らないこと。自分の経験から上手くいったことを述べる
2.原価計算や見積査定についても、理論だけではなく実際の現場でどう役に立つかに注力して教えること
3.交渉術についても、具体的にどのような態度や戦略で望んだときに「もっとも効果が高かったか」を述べること

やや概念的な内容ですまない。ただ、もう若い人が心動かされることは、「正しいか、間違っているか」ではない。「良いか、悪いか」でもない。「これを信じてみたい」という昂りにも似た感情である。

教育の本質は虚像を与えることであるならば、それに少しでも抗う工夫を。もう、人は虚像では動かないのだから。

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