・ユダヤ人はなぜ学問的偉業を成しつづけているのか
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多くの人は知っている通り、ユダヤ人は大変学業的な偉業を成し遂げています。私が馴染み深い経済学者のミルトン・フリードマンもユダヤ人です。少し調べていただければ、たくさんの学者が出てくるでしょう。それに、「ユダヤ人」と言うだけで、どこか不思議な大金持ちたちを想像してしまうかもしれません。

もう一度問いを立ててみます。「なぜ、ユダヤ人はそのような学問的な偉業を成し遂げ続けているのか」と。

おそらく、私が思うにユダヤ人学者の凄いところは「問いを問いで返す」ことにあります。世間一般に言われている「問い」があります。「政府の財政政策は有効なのか」という問い。それに対して、「そもそも、あなた(質問者)が想定している財政政策とは何か」と問い返すわけです。すると、質問者は自分の曖昧さを認識せざるをえません。質問者が行う質問とは、ときに曖昧なことがあります。その質問自体を問うのです。

「永遠の愛なんてあるのかしら?」と問うてきた人がいるとしますよね。そのときにユダヤ人的に正しい返答は、「まずは<愛>の定義とは何ですか?」ということです。困りますよね、そんな返答されたら。「それは、ふたりの人間が相手を思い続けることじゃないかな……」という定義であれば、「もしその定義であれば、人間は永遠に生きることはできないから、<永遠の愛>は存在しない」というわけです。

ちょっと屁理屈っぽいですかね。でも、ユダヤ人の持つ「問いを問いで返す」妙義はこのような形で表出します。それを聞いた質問者が「いや、それは極端すぎる。正確には『永遠に近い愛が存在するか』ということだ。より正確には、『ふたりが死ぬ程度まで愛し続けることができるか』ということだ」と言ったとしましょう。そうなると、もうこっちのペースというわけです。なぜなら、「では、正確な『永遠の愛』は存在しないということですね」で終わりだからです。

繰り返しになりますが、ユダヤ人の偉業とは、このように『問いを問いで返す』ということにあります。質問者の質問自体に異議を唱えること。これがミソだったわけです。

何かを質問されると、「それは定義による」と返す。これは最強の受け答え術なのです。定義されたものが明らかになれば、その存在証明はたやすくなります。ちょっとズルいようですが、議論に最も勝つ技はこれだったのです。

・原理主義者のモノの言い方

ユダヤ人は、もう一つのワザがあります。ある原理が間違っていると批判されたときに、「それは徹底されていないからだ」と言い返すことです。たとえば、「中央銀行の金融政策のみでは、景気対策はできない。実際、金融政策で公定歩合を0(ゼロ)にしても、ほとんど景気浮揚はしないではないか」と指摘されたとします。すると、「それは違う。金融政策が徹底されていないから効果がないのだ。原理的には、公定歩合をマイナス(つまりお金を借りた人に利息を支払う)にすればいいのだ」となるわけです。

人権でも、自由主義でも、すべて同じ反論が可能です。「資本主義の行き過ぎが世界を不幸に陥れた」という批判があったとしても、「それは違う。資本主義が徹底されていなかったのだ。これまでの資本主義は政府主導の制約ある資本主義だった。これからは、超自由主義の資本主義社会に移行せねばならない」ということができるでしょう。

原理主義者は常に、「原理が間違いなのではなく、原理が徹底されていないことが問題なのだ」という反論を繰り広げます。しかし、極端な原理が完全に実社会で徹底されることはありませんよね。とはいえ、このようにして学問的な敵をばったばったとなぎ倒していくところにユダヤ人たちの勝因があった、というわけです。

私がユダヤ人たちをやや批判しているように思われたかもしれません。しかしこれは、物事を考えるとき、思考のとき、に有効な方法です。誰かの意見にたいして、オリジナルなコメントができるようになります。

たとえば「最近の若者は、ひきこもってばかりでいけない」と言う人がいたとしましょう。そこで、こう返すのです。「違いますよ。ひきこもりのほんとうの問題は、徹底的にひきこもることができないことにあるのではないでしょうか?」と。「現代人は、ほんとうに孤独になりたくても、両親やネットや社会など、かならず誰かと関わらざるを得ません。ひきこもり孤独になりたいのに、孤独になれない、完全にひきこもれないという不幸。これこそが問題であるように私には感じられます」などといえば、ちょっとはハッとしますよね。

・バイヤー業務の問題点

それは、バイヤー業務も同じではないでしょうか。おそらく、バイヤー業務の問題は「買う」ことになく、「買えない」ことにあるように私には感じられます。いまの時代は、なかなか頭を下げて売ってもらうという経験をしたことのあるバイヤーはなかなかいません。しかし、ちょっと前までは、各サプライヤーともに注文をさばききれないほどで、受注してもらうことに苦労した時代もありました。

いや、今でもそうなのでしょう。どのバイヤーだって、思い通りに買うことができるわけではありません。むしろ、「買えないこと」にフォーカスしべきです。簡単な例をあげてみましょう。たとえば、サプライヤー評価というものをする調達・購買部門はたくさんあります。しかし、そのサプライヤー評価というときに、それは「買ったサプライヤーの評価である」という枠は脱しきれません。あくまでも、調達実績に対するサプライヤー評価なのです。ほんとうは、設計者やら生産管理部門やらの反対に遭って、「買うことができなかったサプライヤー」がいるはずなのです。結果評価という行為からは、これは見えません。

ユダヤ人にならっていうのであれば、バイヤー業務の問題点を洗い出し、解決策を練るためには、「バイヤー業務のなかで徹底されていない点」を見つけることが必要です。バイヤーと自称しているのに、実は徹底できていないことがあるのではないか。すなわち、「Buy(=買う)」ことができていないことがあるのではないか。ひきこもりの問題が、ひきこもることにあるのではなく、完全にひきこもることができないことにあるように。バイヤーの問題も、買うという行為のなかにあるのではなく、買えなかったところにあると思うのです。

この文章では二つのことを述べました。

1.業務のなかでブレイクスルーが必要な場合、あるいは新たなパラダイムが必要なときは、一般に流布している「問い」の定義そのものを疑ってみること

2.物事の問題点は成されたことではなく、成されていないこと、徹底されていないことにあると認識すること

現在、多くの人が仕事を改善しようとがんばっています。ただその仕事自体の定義をはっきりとさせるところからはじめなければいけません。また、そのときに、自分がやったことの問題点を抽出するのと同時に、自分ができなかったことを抽出することが必要だと思うのです。

たとえば、調達・購買・資材業務において、「開発購買の推進を叫ぶだけではなく、その『開発購買』なるものの定義を明確化する」とか。「既存サプライヤーを改善させるのではなく、買えなかったサプライヤーを採用することはできないか」とか。

失敗から人は学ぶことができます。ただ、失敗にすらならなかったことを抉り出し、なぜ表出しなかったのかを考えることも重要なのです。見えることではなく、見えないことに注目すること。語られることではなく、語られないことに注目することです。

仕事でブレイクスルーする技術とは、日常業務のそんなささやかな「発見」の積み重ねの果てにあると思います。

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