12月の香港。

中環(セントラル)から上環 (ションワン)までをぶらつき、何もすることがなくなった私は銅鑼湾(コーズウェイベイ)のデパートで食事をしたあと、近くのホテルに辿り着いた。

クリスマスも近い日。

傷心のまま旅行を続けていた私は、ホテルのロビーに飾られた可憐なクリスマスツリーを直視することができず、そのままビールを買うために近くのセブンイレブンに駆け込んだ。

手になんとか持てる数本のビールをレジに持っていくと、会計のおわり、出口に立っていた現地の少女が話しかけてきた。彼女は汚らしいジャンパーと細すぎるジーンズをはき、頭にはディズニー・キャラクターのミニーの耳飾りを乗せていた。
「私ね、ディズニーランドに行ったの」
「それはよかった」
「あなた英語話せるのね」
「少しね」
「東京のディズニーランドにも行ってみたいわ」
「すぐに叶うよ」
だといいけれど、と語った彼女は哀しそうな目をしたあと、ぷいと後ろを向いた。あきらかに売春婦とわかる、ある種の妖艶さが漂っていた。彼女の目からは、私が「客」にならないことを見抜いたような、そんな感が見て取れた。

数時間後。酔っていながらも、ホテルの部屋に佇むことが野暮に感じられた私は、ふらりと尖沙咀(チムサアチョイ)にまで足を延ばしてみた。MTRから出たすぐ、そこにはブランド街がずっと続いていた。

ROLEXと大きく掲げた看板。有名なブランドショップの列。輝く看板。大きな紙袋を持ち歩く上流に属する人たち。次々に高級ブランドをまとめ買いしていた姿が印象的だった。

そこには、ブランド品がすべてという雰囲気が充満していた。もちろん、日本にもブランドショップはたくさんある。しかし、ブランド品のみが乱舞した、ある種の下品さは私をも魅了するに十分だった。

ここには、下品さはあっても、どこか鬱屈した妬みの情はない。ただ、そこにはブランド品を買うことのできる人種というものがいて、庶民とは別の暮らしをしているという単なる「事実」があるように感じられた。

なぜだかクリスマスになると、私にはセブンイレブンで出会った貧相な少女と、このブランド街の様子が対照的に浮かんでくる。

いや、この程度の対照など、あえて取り上げるまでもなく世界中に転がっているのだろう。しかし、私にはこの対照的な、いまの言葉でいうところの格差が、数奇にそして不思議に感じられる。ほぼ同じところに住んでいて、ある者は破れかけの衣服に身をまとい、ある者はその数百倍のお金を、たかが時計に一瞬で費やすという――、その数奇さのことである。

その格差がなぜ生まれるのか。私にはそのほとんどの原因が偶然であるように感じられる。その一方で、少なからぬ論者は、金銭的格差を生むものは知識だとしてきた。知識こそがお金になる。他者より知識を持つものは富を得、そうでないものは富を掴み損ねる。高学歴者のほうがたしかに平均収入は高いではないか。見よ、やはり知識は富になるのである、と。

ただ、私はそこまで断言する自信がない。

収入は知識によってコントロールが可能だろうか。もちろん、可能かもしれない。しかも、統計上はたしかに高学歴の者が平均的には高収入を得るのも、また事実だろう。しかし、そこから学問のすすめを説くのは私の役割ではない。

かつて、ある企業の役員と話していて驚いたことがある。「高度成長期に働き始めてね」とその役員は教えてくれた。「それで、もっともバブル真っ盛りのときに部長になった。そのときは、経費は使い放題。新宿で飲み歩くのは愉しかったよ、ほんとうに。それで、頭がボケてきたころに役員になって、今じゃあ日本じゅうが不景気だけど、もうそろそろ役員定年だから問題ないよ」と。

まさに自分たちが最幸運の世代であるかのように語る口ぶりに、私は無意識に反感を抱いていたのかもしれない。私は逆に質問してみた。「でも、バブルで浮かれていたあのころが、ほんとうに良かったかなんてわかりませんよね」と。彼は即答した。「いや、最高だったよ。金をたくさん使って、高い店をハシゴして。その何がつまらない?」。私はこれ以上の質問は弊履と化すことが理解することができた。

その後、彼は浪費癖に罹患したまま、借金を抱え自宅を売却することになった。

私は香港での光景と、彼の現状を対比させて、考えることがある。富むものと貧しきもの。それは偶然に生じた格差かもしれない。しかし、その偶然さゆえに、そしてその浪費癖ゆえに、富むものはとたんに転落することがある。

むしろ、収入ないものであっても、知識によって収入を変えることができなくても、知識によって支出を抑制することはできる。凡才のための技術は、収入をあげることではなく、支出を抑えるために活用されるものではないか。

収入をあげることは、さまざまな要因によって騅逝かぬことがある。その一方、支出は自らの力でコントロールすることができる。しかも、それはささやかな知識で可能となるものなのである。

私は冒頭で、香港の売春婦について述べた。あるとき、そのことをある人に話すと、こう言われた。「立ちんぼは、貧しい層出身者がほとんどです。なかには組織的に拘束されているものもいれば、まともに働くよりも稼げると続けるものもいる。親に仕送りしている女性もいる」と。「しかし、少なからぬ女性は、結局そのお金を使い果たして、また夜に吸い込まれていくのです」。

残念ながら彼女の望みを叶えてあげられなかった私は、彼女にぷいとそっぽを向かれることになった。しかし、それにしてもなぜか彼女の顔をたまに思い出してしまう。

あの目が、そうさせるのだ。

彼女の、どこかなげやりで、ひどくそっけなく、かつ哀しい顔は、彼女の孤独のサインだったのではないかと思う。どのようなきっかけで彼女が夜の街を徘徊する衝動をおぼえたのかはわからない。もちろん、強制させられた労働かもしれない。ただ、勝手な想像にすぎないが、それは、どこにも行けなかった少女が、自ら辿りついた仕事のように感じられた。

きっと彼女は自分の現状にいたたまれなかったのだろう。そのうち、彼女は貧しさを変えてくれる魔法のような仕事と「出遭った」のだ。私は売春の相場を知らないが、それは彼女にとってたしかに何かをもたらしてくれる仕事だったに違いない。

多くの場合は収入を改善するのではなく、それを浪費しない習慣を形作らなければ、お金などすぐに霧散する。また同じ生活が繰り返されるだけだ。

いや、もしかして彼女は、そのように節約して質素な生活をすることなど諦めているのかもしれない。「堕ちていきたいのよ」。私がそんな無粋なことを言っても、彼女はそうつぶやくのではないか。そう感じさせるほど、どこか救いようのない虚ろな目だった。

ただ――、と思う。

もし、あのとき私がもっと愉しそうに会話を続けていたら、彼女から哀しさや暗さではない、距離の短い苦痛の言葉を聞くことができただろう。彼女の目は、どこかで救いを求めていたのだ、と私は思う。

私は別に節約とか支出管理だけで彼女が救えるとは思わない。ただ、「結局そのお金を使い果たして、また夜に吸い込まれていく」という事実は寂しすぎる、とは思う。彼女が振り返って、次のお客を探しているとき、何を考え、何をみつめていたのだろう。

そういえば、彼女から話しかけられたとき、お釣りをちゃんともらったっけ。
それだけは思い出せない。


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